最近、信仰について考えることがありましたんで文章に書きとめておこうとおもいます。
週刊誌で新興宗教の記事を見るたびに感じる嫌悪感がなんなんだろうか?という問いがきっかけです。
でこういうものが気になると自分アンテナに引っ付いてくるわけです。
その前に信仰というものの種類は何かというと。宗教、主義、人、システム、考え方、自然 等ですか。
あと気をつけなくてはいけないのがイメージという[gohst]です。このイメージによって過剰に振り回され感情的に反応してしまってはいけません。
とにかく立ち位置はセンターにいたいものです。
そしていろんな人に話を聞いてみたんですが、一人一人話してみると真剣で謙虚なのです。
ここからは宗教に限って書きますが、
この前 教会にはじめて行ってきました。しっかりしている所は張り詰めた緊張感と静寂感に加えて包容感がヒシヒシと感じていい朝が迎えられました。
ふと立ち止まり、熟考をするにはいい環境です。
で案内をしてもらった方と話をさしてもらったんですが
・歴史を知る事の面白さ
・ものごとは人の解釈によって変わってくる
・ものを考えるアプローチとして新しく感じ取ったもの
(自分の中にあるものから選びとる方法がまずあり)
一回主観を捨てて他利を考える方法
という以上のことを感じました。
オマケで新興との違いはというと
「明治時代を境にする(教祖が生きてるか、亡くなっているか)」
「勧誘するか、しないか。(キリスト教は入る為にはかなりの時間がかかるそうです)」
「歴史の深さ、長さ(歴史の長さは信用と結びつくのでは?)」
「根拠がはっきりしている」
で今のものを踏まえてワタクシから出るものは
横暴ですが性格上、ややこしいのは苦手なので「シンプル」に考えたい。
地球という自然があってその上に動植物と人間がいる。でそれを繋いでいるのが「知恵」だと思います。
(きっとこの考え方は誰かが言っていて名前が付いていると察します。何かの本で読んだりしたものでしょう。誰の何かはわかりません)
信心というものは誰かに云われるものではなく、本人の内面から湧き出るものではないのか?
生活や普遍的なものから導かれるものではないか?
信仰は一人で実践するものである。
こんなところで終わります。